窪田次郎
2月6日という日は、日本で最古の啓蒙所(小学校の前身)が深津村(現福山市東深津町)の長尾寺に1871年(明治4年)に開設された記念すべき日です。
すべての子どもを平等に教育しなくてはならないとして、各村の有志を持って啓蒙所を設置するための運動を起こし、安那郡粟根村(現加茂町粟根)に生まれた窪田次郎です。
こうした啓蒙所の設立がきっかけとなり、明治政府は1872年(明治5年)学制令を公布しました。このころには、啓蒙所の数88校、生徒数5095人でした。
1873年(明治6年)3月には、全国一律に小学校ができましたが、この地方では啓蒙所がそのまま新制度の小学校に移行することになりました。
窪田次郎は、早くより長崎で西洋医学を修め、また蘭学と西洋事情にも精通し、福沢諭吉などとともに啓蒙運動にも努めました。
明治時代の地方にあって、偉大な思想家であった窪田次郎の生家跡は、庭園や土塀、石垣、土蔵等を中心に当時の庄屋屋敷の面影を残しています。
1995年(平成7年)6月、福山市の史跡に指定されました。
 
窪田邸跡とエノキ
共に市の市跡指定

井伏鱒二(1898〜1993)
小説家。広島県福山市加茂町に生まれる。
福山中学校(現・福山誠之館高校)を卒業、初めは画家を志したが、早稲田大学に入学して、文学の道に進んだ。独特の戯画手法を駆使した「山椒魚」「朽助のゐる谷間」などをもって文壇に登場。のち、「ジョン万次郎漂流記」によって直木賞を受賞した。太平洋戦争初期には、陸軍に徴用されてシンガーポールに滞在、戦争末期から戦後にかけては、三年間甲府と郷里に疎開した。
戦後は、着実で充実した創作活動によって、次第に文壇で重きをなし、特に、原爆を扱った「黒い雨」によって、その名を内外に高めた。諸作品によって多くの文学賞を受賞し、芸術院会員となり、文化勲章も受けた。
井伏文学は、郷土に深く根ざして普遍に達した文学として、日本近代文学史上重要な位置を占める。